オーラ・アート

こんにちは

Keikoです。

本日は私の尊敬する画伯の「龍敬子」先生を

ご紹介させていただきます。

 

今回「龍敬子」先生をご紹介させていただこう

と思ったきっかけですが、

龍敬子先生のご息女である龍惠理子様より

龍敬子先生がお亡くなりになり、

千葉のギャラリーにて作品他写真など

を展示しますので、お越しくださいという

ご案内があったからです。

1年前に以前あった巣鴨の画廊に訪れた時に

先生は、病気療養中だと伺っていましたが、

ついにその時がきたんだなと

先生は天命を全うされたんだなと思いました。

先生の功績は後世に残り続け、社会の発展

に寄与すると確信しております。

改めて、龍敬子先生に感謝の意を

表すとともに、

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

私は以前巣鴨にあった「龍敬子」画伯の

ギャラリーへは、3回来館しました。

龍敬子先生ご本人ともお会いしましたし、

絵画を購入させていただいて現在家の和室に

飾っております。

龍敬子先生のパワー溢れる絵画から、

毎日勇気と元気をいただいている私ですが、

先生のことを知っていただくことで

みなさんにも元気をお届けできたらと

思っております。

こちらの本に詳しく先生のことが詳しく

書かれています。

簡単ではありますが本の内容をお伝え

させていただきます。

 

先生は1932年に東京の日暮里で

お生まれになりました。

1945年3月10日に東京大空襲を経験

され、群馬県長野村に疎開されました。

 

子ども時代は特に絵が上手だったり、

好きだったりしたことはなかったそう

です。

先生は私の「能力」は持って生まれたもの

ではなく、その後の生き方によって、

何かが触発され、湧きだしてきたような

ものではないかと考えていますと、

仰っています。

 

1950年に聖書農学園を首席で卒業後、

青山短大に入学しましたが、経済的な問題で

中退となりました。

 

大学を卒業できなければ、希望していた

スチュワーデスや英文タイピストになるこ

とはできません。この時点で、それまで

持っていた夢を諦めるしかなく、とても

大きなショックでした。

私はこの時、私の人生で第一回目ともいえる

「挫折」を経験したのでした。

それを強く感じたことを覚えています。

と著書で仰っています。

 

先生は学校生活をやむなく辞めた後は、

そのままダラダラと人生を送る気は

全然なく、何事か人生で成し遂げたい

という気持ち、自分自身の力で、才覚

で、能力で何事かを成したいという思い

が強かったそうです。

 

仕事にアルバイトにと目いっぱい頑張り

いつか自分で会社を興そうと考え始め、

その結果、29歳の頃に健康産業の事業を

始めるという念願が実現しました。

 

女性実業家という当時では珍しくデビュー

したことで、マスコミにも取り上げられ、

事業規模を拡大していきました。

 

事業を興してから6年、35歳の時に倒産

となり当時の金額で1億円という借金を

背負うことになりました。

倒産が決まるや否や、やむを得ずすぐさま

逃亡生活に入ることになります。

 

1億円の借金の中には高利貸から借りたもの

もあり、その中には強引に借金の返済を

求めてきた人もあったそうです。

 

身ひとつで逃げ出し、実家とも一切の交渉を

断ち切り、麻雀屋の手伝い、旅館の中居、

キャバレーのホステスなど限られた仕事を

しながら逃亡生活を5年間続けました。

 

本当に一日として気が休まることがなく、

経済的にも苦しく、孤独で暗黒のような

日々だったそうです。

なかでも一番辛いのがお正月だったそう

です。

世の中の人がお正月気分の時、行くと

ころもすることもなく、たった一人で

いなければならなかったそうです。

家具もろくになく、狭い寂しいアパート

に一人でいることはできず、

かといってお金もないのでどこかに出

掛けるというわけにもいかなく、

朝から晩まで、ただ公園で過ごし、少し

でもお正月が過ぎるのを願っていたそう

です。先の望みもない、生きている実感も

ない、いつも追われ、孤独な日々だった

そうです。

 

あとから考えると、よく生き抜いて

これたなあと感心してしまいます。

若い時の苦労は買ってでもせよ、

という言葉がありますが、これは本当

だなあとつくづく思います。若かったか

ら何とか耐えられたのだと思いますが、

思い出すのも辛い、地獄のような5年間

でしたと著書で仰っています。

 

逃亡生活が4年目に入った頃から、借金

取りの追及がだんだんと緩んできて、

実家へも訪ねることができるようになった

そうです。

 

以前の知人や友人達にも会って、アドバ

イスをもらえるようになり、何人もの

知人、友人に「借金を作ったのは東京

だが、あなたの地盤もまた東京ではない

か」「一度は社長の椅子に座った人間

なんだ、二度目ができないはずはない」

と言われ、辛いけれでも、先行きの

見込みはないけれども、もう少しなんとか

頑張ってみようと思ったそうです。

 

そして仕事の口をいろいろと世話してくだ

さる方のおかげで社会復帰への道を歩み始

められました。

 

そのような状況の中、ご主人との出会い、

結婚、絵画との出会いという人生を変え

る2つの出会いがあります。

 

ご主人と40歳の時に結婚後、ご主人が

借金問題を解決してくれたそうです。

様々な金融機関と話し合い、借金の返済

計画の承認を取り付けてくれたそうです。

 

暗黒時代は5年間続きましたが、今思うに

この5年間は私に多くのことを与えてく

れました。苦しく辛い時期ではありまし

たが、このような経験をしたことによっ

て、初めて私のやるべきこと、使命といって

よいかもしれませんが、そのことが発見され

たのだと思いますと、仰っています。

 

逃亡生活4年目の時に銀座を歩いていた

ときに、何気なく立ち寄ったデパート

で、梅原龍三郎画伯の展覧会が開催され

ていました。浅間山が噴煙をあげている

絵の前から動くことができなく、ジッと絵

を見入っていたそうです。

 

その絵が欲しくて欲しくて

たまらなかったそうですが、借金をして

逃亡している身で購入することなど夢の

また夢と思っている瞬間、「買うことがで

きないなら自分で描こう」とひらめいた

そうです。

 

それからは、梅原画伯の作品図録と油絵を

買って作品の模写をしていきました。

絵を描くようになってからは、心がどんどん

と透明になっていくように感じられた

そうです。

 

いつしかこれが天命、使命なのではな

いだろうかと漠然と思い始めたそうです。

そうして模写作家としてスタートをしていきました。

模写作品が評価され始め、画家として本格的に

活動を開始しました。

 

51歳の時に東京の大塚に画廊を開設しました。

不眠不休で絵を描き続ける中、頭の中が

真っ白になり、手や腕や体が何か動作を、

絵を描く動作をしていて、何も考えられ

なくただただ、体の何かが命じるまま、

無我夢中で必死になって、全身を包み、

全身に浮かぶイメージを絵画化

していき、何か動作をしていたら絵が完成

してしまったというものだったそうです。

 

この絵は私が描いたものではない、

描かせていただいたんだと理解していった

そうです。ご自分でも凄い絵だと圧倒され

ました。

描いた絵からは強い意志、強いエネルギーを

感じました。

この絵こそがオーラ・アートであり、それを

自覚し、自らをオーラ・アーティストと

して生きようと決意されたそうです。

 

先生は偶然というものはなく、すべて必然

です。

地獄の生活があったからこそ、絵画の

世界に入ったわけですし、模写絵画の展覧会

の拒否があったからこそ、オーラ・アートの

転換を決意できたわけです。

世の中には偶然はない、すべて必然だ、

すべて天の配慮でという意を決定的に強く

したと仰っています。

画家は波乱万丈な人生を歩んでいる方多いで

すが、龍敬子先生の絵画は人生の力強さが

表現されていて、画面越しに見ているだけで

も体の心底から熱くなり、力が湧いてきます。

 

原画のパワーは本当に物凄くて圧倒されます。

みなさんも元気がないな、疲れたなという

時は是非先生の絵をご覧ください。

画面越しからもパワーが出ていますので、

力をいただけるかと思います。

 

いかがでしたでしょうか。

年末で一年の疲れがどっと出てくるとき

ですが、

どうかお元気に年を越してくださいね。

本日も最後までご覧いただき

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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